JUSTSAPの生い立ち
* 発端
1980年代後半、米国から日本に対し通信衛星の購入を迫るなど、宇宙開発に関し日ー米政府間で険悪な空気が漂っていた。日本国内では、経団連を中心として人工衛星の購入促進派と国産派が対立しているかのような風評が新聞により取り上げられるなど、騒然とした雰囲気が充満していた。この事態を憂いた前NASA副長官のDr.Burton Edelson(故人)が長年の日本の友人である日本電気主席技師長(当時)の黒田隆二氏および宇宙科学研究所所長(当時)の西村純氏に「日本と米国の宇宙開発に関する関係はインテルサット通信システムの構築に際して、両者が親密に協力し合った経緯があり、今のギクシャクした関係は間違っている。政府間の交渉だけにまかせると今まで築いた良好な関係が全く無駄になる。この際、両国の産・官・学が一堂に会し、忌憚のない意見を交換する場を設定したい。案としてはワシントンで1回、東京で1回の会合する計画としたいが、賛成していただけるか」といった問いかけをしてきた。両名は早速協議の上、賛成の回答を送り、準備に取り掛かった。
* スパーク・マツナガ氏と近藤鉄雄氏
この話以前、1987年に米国の上院議員、スパーク・マツナガ氏により日本に対して、1992年を国際宇宙年(ISY)として世界中で宇宙開発を盛り上げようとの提案があり、「太平洋ISY会議」と称してハワイ島に日米の関係者が集まり協議、提案の為の会合を持った。日本からの主な参加者は、宇宙開発委員会委員斎藤成文氏、国会議員近藤鉄雄氏、経団連宇宙開発推進会議会長関本忠弘氏、宇宙科学研究所所長西村純氏などであり、産業界からは宇宙開発推進会議企画部会の有力メンバーが多数参加した。この時に、日米の産・官・学に渉って多くの友好関係が出来、後のハワイ会議の素地が出来たのである。またこの縁で、スパーク・マツナガ氏のご子息であるマット・マツナガ氏(ハワイ州上院議員)が後のJUSTSAPの会長に就任された。ちなみに、日本側でこの呼びかけに応じて出席した国会議員は近藤鉄雄氏ただ一人で、これが縁となって後に近藤鉄雄氏をJUSTSAPの顧問としてお迎えすることとなったのである。
* 活動資金
Dr.Edelsonは、資金獲得のため日米友好協会〈ワシントン〉との交渉を開始した。米国側では日米友好協会からの資金獲得に成功し、「日米」を頭につけて会合の名称をJapan-US
Cooperation in Space Program(日米宇宙協力プログラム)とすることが決定された。
* ハワイ会議(総会)
一方、この話を聞きつけた元太平洋艦隊司令長官のThomas Hayward氏は、当時ハワイ州宇宙局長官をしていたので「そのような話であるなら両国の本土の中間地点であるハワイで会合を持ったらどうか。アレンジは私のほうで引き受ける。ハワイでやるなら会合も1回で済み、経費も節約できる」と提案し、最終的にハワイで開催することが決定された。
* 事務局
日本側ではこの話を航空宇宙工業会の小野専務理事(当時)に持ち込み、即座に事務局の中心となることに承諾をいただいた。しかし、資金については全くメドが立たず、協議の末、参加各社及び団体からの参加人数に応じた拠出を仰ぐことで決着した。
* 第1回ハワイ会議(総会)
このような経緯を経て、1990年11月30日、12月1日の二日間にわたってハワイ大学のEast-West Centerで第1回目のハワイ会議(総会)が持たれた。
* 参加者
日本側からの参加は15名、米国からの参加は25名ほかにハワイ大学からオブザーバーとして7名が参加した。ちなみに日本からの参加者は
飯田尚志
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通総研
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池本多賀史
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三菱電機
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岩崎宣雄
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NASDA
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岩田正明
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日産自動車
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河合貞治
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日立
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黒田隆二
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日本電気
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小泉深吉
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日本電気
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萩野谷徹
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JSUP
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波多野豊
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東芝
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藤井登喜男
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石川島播磨重工
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桝谷利男
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三菱重工
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水谷 仁
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宇宙研
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中山眞一
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科学技術庁
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西村 純
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宇宙研
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山下冨吉
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富士通
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であった。
* 会議の継続
会議が終了し、レポートが発行された後、誰言うとなく折角会議において議論したことを更に深く検討するため継続して会議を開いたらどうかとの提案があった。
準備の都合から第2回目は1992年にハワイ島で開催され、以後今日に至るまで毎年開催を継続している。
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